Esnus’s blog

知的障害者の母親を持つということ

#11.自己を認識できない・自分が誰か判らない②

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#9.自己を認識できない・自分が誰か判らない

では、下記について書きました。

        ・自分が誰か判らない

        ・他者と自分の区別

        ・長期的なビジョンを描けない

 

他者と自分の区別がつかず、

時折、他者になりきってしまうひろ江について

読者の方から驚いたというコメントをいただきました。

この症状については不可思議で

筆者自身、他の精神疾患も疑いました。

 

そんな折に、加藤進昌先生の記事(※)を読み

謎がとける思いでした。

今回はそれについて補足をしたいと思います。

 

自己像がない

 

発達障害の自己認識の弱さについて、加藤先生は

以下のように述べられている。

 

【成人発達障害専門外来とリハビリテーション】(※)
自分のモノと人のモノとの境界がすごく曖昧である。

それは単に持ち物だけではなくて、

お金や人間関係、地位、立場といったこともそうです。
…こういうつかみどころがない、自己像がないという感じは、

彼らの特徴の一番深いところにあるように思います。

だからカウンセリングはほとんど役に立ちません。

…特にこういう自己像認知、自分が何者かという認知が、

一番深いところで決定的に欠けているように思われます。
(昭和大学附属烏山病院病院長 加藤進昌)

 

ひろ江の場合はつまり・・・

人と自分の境目が曖昧すぎて、

「地位や立場さえも、相手になりきってしまう」

これに該当すると思われる。

 

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ひろ江の兄弟姉妹は、スーパーエリートである。

彼等は、子供の頃から、何をやってもトップの位置に居る。

彼等は学歴や経歴など、常にハイステータスである。

ひろ江は、家庭で兄弟姉妹をみていたので、記憶に焼き付いている。

学歴の話になると、無意識のうちに

自身がスーパーエリートとして話し始める(彼等になりきってしまう)

 

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第3者からみると、大変奇妙な光景である。

多重人格者のようにみえてしまう。

ひろ江は自己認知が低く、自分が誰だか判らず、

等身大の自分を見ることが出来ない。

 

等身大の自分を見る事が出来たら
自分に合った人生を選択することもできただろう。
兄弟姉妹とひろ江のギャップが大きいにも関わらず
彼等と同じ生活をしようとする。
いちサラリーマン家庭の主婦であるが
兄弟姉妹の生活を倣う。

毎日、習い事やテニスをして過ごす。

 

ひろ江が行く先には、子育て中の主婦は居ない。

子育てが終わった初老の女性ばかりがいる。

お金と時間に余裕のある人しか来ない場所である。

 

現実の世界では、周囲の母親は子供中心の生活を送っている。

田舎の街には、ハイステータスの人など少ない。

ひろ江は、子育て世代のママ友を知らない為

子供がどんな環境に居るかを知らない。

学校で何がおきているか、

田舎の学校がどんなに劣悪な環境か等・・・

気づく筈もない。

毎日、家とテニス場を往復するが

そこには子供と関係ある情報は無い。

 

傍から見れば、滑稽であるが

ひろ江は、その生活に疑問をもつことがない。

置かれた状況で優先順位が何なのか、

母親として何をしなければいけないか

考えが及ぶこともない。

 

又、子供にも兄弟姉妹と同じであることを望む。

しかし、兄弟姉妹になる為のステップを

考えることが出来ない。

 

    兄弟姉妹は何をやっても一番だった

         

    一番になれば、兄弟姉妹になることができる

 

と安直に考える。

 

それ故に、娘の成績がよくても満足をすることがない。
周囲の子供達が80点を取り
娘が95点をとっても納得しない。
95点でも 「うっかり間違いでも、ミスはミスだ、満足するな」
と鼻息を荒くする。
1科目で100点をとれば、
「この科目だけで満足するな」という。
ひろ江のエゴは留まるところを知らない。

 

考察:

 

ひろ江は、自分が誰かを完全に忘れているように見える。

子育て中、および人生の全期間をとおして

平均点すら取れなかったひろ江の姿はどこにも存在していない。

兄弟姉妹の人生を生きているように見える。

 

 

現実世界とひろ江自身のギャップが

いつも不自然な世界を造り出している。

ミスマッチは不幸である。

しかし自分が誰か判らなければ

置かれた環境に適応することは難しいだろう。

 

又、ひろ江には努力するという概念がない。

兄弟姉妹のようになる為に

建設的な目標をたてるという考えがない。

 

自分が誰か判らなければ

何をすればよいか、判る筈もなく

努力の方法など、見当もつかないかもしれない。

 

そもそも、ひろ江は時間の概念がなく

未来軸が存在しない。

未来の目標をたてること自体、不可能なのかもしれない。

 

ケーキの切れない非行非行少年たち』 の著者である宮口幸治氏が

「どうしても頑張れない人たち」が一定数存在することについて

同氏の新著 『どうしても頑張れない人たち ケーキの切れない非行少年たち2』 

で紹介している(下記へ一部抜粋)。

筆者は、それがどんな状態なのか

目に見えるように判り

長年の謎が解けた思いがした。

 

ひろ江の自己認知力の低さについて

改めて深刻さを知ると同時に、

ひろ江の人生は

「舵取りの居ない船に乗っているような状態」に見える。

“進むべき方向へ導き、誤ったら起動修正をしてくれる“

ひろ江には、そういうキーパーソンが不可欠である。

これ程の障害がありながら

成人するまで、周囲の者が気づかなかったことも

驚くべきことである。

或いはパンドラの箱が開けられずにいたのであるか。

 

『どうしても頑張れない人たち ケーキの切れない非行少年たち2』 【見通しの弱さの問題】

頑張るには、“こうなるためには、これをやったらこうなるから、

だからそこまで頑張ってみよう”といった、見通しをもつことが大切です。

この見通しの力は“探索の深さ”とも呼ばれ、

何ステップ先まで考えられるかに関係してきます。

 

しかし、認知機能が弱い人は、先のことを想像するのが苦手で、

せいぜい“これをやったらこうなる”といった1~2ステップ先くらいしか

見通せません。心理学者のハーマン・スピッツらの研究では、

知的障害児では探索の深さは1ステップであることが指摘されています。

 

例)漢字を覚える宿題を出される

          ↓

    ステップ1:ほめられる

          ↓

    ステップ2:やる気が出る

          ↓

    ステップ3:テストでいい点が取れる

          ↓

    ステップ4:いい学校に行ける

          ↓

    ステップ5:いい仕事につける

 

これだけの見通しがもてれば、いま漢字を覚える必要性が理解でき、

漢字を覚えようと頑張る気持ちに繋がります。

ただ、まだ子どもであれば長い見通しは難しいので、

見通せるのはよくて“いい学校に行ける”という4ステップ目くらいまででは

ないでしょうか。

 

ですので、いい学校に行きたいという見通しがもて、その気持ちが生じれば

頑張るわけです。

しかし知的障害など認知機能が弱いと1ステップしか先が見通せないことも

あります。

つまりこの例ですと“ほめられる”までしか見通しがもてていないのです。

(ステップ1) 漢字を覚える→ほめられる

                                        (著:宮口幸治)

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(次項へ続く)